アフリカ・コンゴの紛争地帯でレイプ被害に遭った女性たちの治療を続けている産婦人科医デニ・ムクウェゲを最初に取材したのは、2014年12月だった。ノーベル平和賞の候補者の一人にあげられており、その準備のためのインタビューが目的だった。
彼が設立したパンジ病院は、数十の武装組織が乱立して内戦状態が続くコンゴ東部のブカブ近郊にあった。鉄条網が張られた高いフェンスを抜け、重い鉄製の扉を押し開けて敷地内に入ると、手入れの行き届いた花壇には数種類のバラが咲き誇り、欧米の小学校のような風景が広がっていた。
訪問初日は手術の予定が立て込んでおり、面会が許可されたのは翌日朝だった。
「今日なら1時間ほど時間が取れる。何でも好きなことを聞いてくれ」
身長が185センチ以上もありそうなムクウェゲは、グローブのような分厚い手のひらで私の手を力いっぱい握ると、「よくもまあ、こんな危険地帯に」といささか自嘲的に笑いながらその巨体を執務室のソファに沈めた。
「あなたにはぜひ、コンゴ東部で起きていることを日本やアジアに『正確に』伝えてほしい」
インタビューの冒頭、彼は「正確に」という言葉を意図的に強調した。
「ここで起きている紛争は、欧米で言われているような民族同士の殺し合いなんかじゃないんだ。国と国が領土を奪い合う戦争でも、宗教的な対立でもない。豊富な地下資源をめぐって引き起こされている、純粋な経済戦争なんだ」
ムクウェゲは落ち着いた口調で、この地で今起きていることについて語ってくれた。
コンゴで内戦が始まったのは1996年。以来、パンジ病院では兵士らに性暴力を受けた女性たちを受け入れ続けてきた。
その数、約3万人。被害女性の多くはけがをしているだけでなく、家族の面前でレイプされ、精神的にも大きな傷を負っている。そのため、病院では患者が運び込まれてきても、すぐには手術をすることができない。多くの女性が自暴自棄になっており、たとえ手術をしたとしても、食事を取らなかったり、薬を飲まなかったりするからだ。
治療を終えたとしても、敵にレイプされた女性は汚れていると見なされ、家庭や地域に戻りにくい状況がある。レイプによって生まれた子どもは地域社会から疎外され、その影響は化学兵器による後遺症のように、何世代にもわたって続いていく……。
「『iPhone戦争』とか『プレイステーション戦争』とかいう言葉を聞いたことがあるかな?」
ムクウェゲは声のトーンを落として私に聞いた。
「アップルやソニーを非難しているんじゃない。コンゴ東部には金やダイヤモンドだけでなく、スマートフォンやゲーム機などの電子機器を作るのに不可欠なコバルトやタンタルなどのレアメタルが豊富に眠っている。これらの地下資源はすべて国外へと輸出され、その利益の多くが鉱山や埋蔵地帯を占拠している武装勢力の資金源になっているんだ。武装勢力はそのカネで先進国から大量の武器を購入している。豊富な資金源があるから、ここでは戦争が終わらない。欧米諸国や日本が作り出す電子機器のために、この国では少年たちが少年兵にさせられたり、少女たちがレイプされたりしているんだ……」
レイプの被害者については内戦状態で調査ができず、その数を特定するのは難しい。アメリカの公衆衛生専門家が2011年に米学術誌に発表した報告では、2006~07年の1年間でレイプされた15~49歳の女性は40万人以上。
ムクウェゲは「実際の数は誰にもわからないんだ」と無念そうに天井を見上げた。
1955年、彼はコンゴ東部のブカブで生まれた。父はカトリック教会の神父で、医師や看護師の少ないアフリカ諸国が往々にそうであるように、伝統的な「祈禱師」としての役割も担っていた。
8歳になったとき、彼は近所の友達が病気になったため、万能であるはずの父に「あの子の病気を治してほしい」と懇願した。父は病の子どもの貧家に出向き、しばらく祈りを捧げた後、薬も治療も施さずに帰宅した。
その様子を見て、ムクウェゲは子どもながらにショックを受けた。
「なぜ、あの子には薬をあげなかったの?」
ムクウェゲは帰宅した父に尋ねた。家ではいつも彼が病気になると、父が祈りを捧げるとともに西洋薬を手渡してくれていたからだ。
「私は神父であり、医者ではないのだよ」と父は微笑みながら息子を諭した。
「お前が病気になったときにあげている薬は、私が病院でもらってきたものなんだ。お前が本当に誰かを救いたいと思うのなら、祈りと薬を両方授けられる人になりなさい」
彼はその日を境に、将来は医療従事者になることを決めた。
資金的に豊かではない神父の子として、夢を叶えるための選択肢は二つしかなかった。
一つは看護師になること。もう一つは医療アシスタントになること。
ところが、学校の成績が優秀だったムクウェゲは、ある日校長から「学位を取って、医師になった方がいい」と勧められ、隣国ブルンジの首都ブジュンブラの医療学校へと進学する。そして1983年に卒業すると、ブカブから南に約60キロ離れたルムラと呼ばれる小さな田舎の病院に赴任した。
彼はそこである「アフリカの現実」に直面する。コンゴの中でも貧しい地域であるルムラでは、多くの女性が出産前後にいとも簡単に死んでしまうのである。
人の命を授かる出産で、なぜ命を奪われなければならないのか――。
ムクウェゲは1984年、フランスのアンジェに渡り、産婦人科医になるための教育を受け始める。
フランスでは、アフリカの最貧国であるコンゴとは比べようもない豊かな暮らしが待っていた。商店には毎日破棄されるほどの食べ物が並び、人々は自由で文化的な生活を享受することができる。ムクウェゲは家族と共に何不自由ない生活を5年間続けた。
でも一方で、彼はその間ずっと、「自分はここにいるべきではない」と自らに言い聞かせ続けた。
「俺は豊かな生活を送るために医師になったわけじゃない――」
そして1989年、かつての勤務先であるコンゴ・ルムラの病院へと舞い戻る。ルムラには学校も大型商店も満足な道路さえなく、5年間フランスで暮らした妻子が十分に生活できるか不安だったため、家族を出身地のブカブに残し、彼は単身で赴任した。