2013年8月、出張先のカイロ支局のニュースルーム(編集室)に、先輩記者が飛び込んできた。
「とんでもないことが起きている。テレビを見てくれ!」
テレビ画面に視線を向けると、そこでは奇妙な映像が流れ始めていた。画面右上のテロップは、それが中東のシリアの映像であることを告げている。廃虚のような場所に、次々と子どもたちが運び込まれてきていた。おむつをしている乳児、三つ編みの少女、子どもたちに抱きつく母親らしき女性たちの姿――。
よく見ると、子どもたちは皆、口から泡のようなものを吐き出している。大人たちは大慌てで子どもたちの服をはぎ取り、バケツやホースで顔や体に水をかけていた。しばらくすると周囲で震えていた子どもたちが床に倒れ始め、大人たちは子どもたちに心臓マッサージを施し始めた。
「毒ガスだ。子どもたちがやられた――」
画面の中で男性が叫んでいるアラビア語を近くにいた取材助手に訳してもらってようやく、私はそこで何が起きているのかを理解することができた。どうやら反政府勢力が支配するシリアの首都ダマスカス近郊の町で、アサド政権が居住者に向かって「化学兵器」を使用し、子どもを含む多くの住民に犠牲者が出たようだった。
画面に映し出されるその症状のいくつかについて、大学・大学院で有機合成化学を専攻した私には、少なからず見識があった。第二次世界大戦前、ナチスによって化学兵器として開発され、あのオウム真理教の事件でも使われた猛毒ガス――サリンだ。
化学兵器を使用した民間人への攻撃に対し、国際社会はすぐさまアレルギー反応を引き起こした。アメリカは「アサド政権が化学兵器を使い、426人の子どもを含む1429人を殺害した」とほぼ断定し、国連では連日連夜、シリアへの軍事介入の是非をめぐる激しい議論が交わされ続けた。
カイロ支局でも常勤特派員がシリア行きの準備を進めるなか、私はカイロにとどまって、現地から送られてくるNGOや国連機関からの報告書をもとに記事を執筆するよう命じられた。
現地からの映像を見る限り、犠牲者の多くが子どもによって占められているようだった。床一面が子どもの遺体で埋まっている映像も多々あり、大人の犠牲者については男性よりも女性が圧倒的に多い印象だった。
調べてみると、シリアの人権団体がすぐさま周辺地域の医療拠点を回り、詳細なリポートをネット上にアップしていた。それらを読み込むことで、なぜ犠牲者の多くが子どもや女性によって占められているのか、その理由をおぼろげながらに理解することができた。
アサド政権はその日の未明、学校や電話交換施設を狙って30発以上のミサイルを撃ち込んだようだった。男たちは被害の状況を確認するために屋外へと飛び出し、女性や子どもはさらなる爆撃を避けるため、堅牢な地下室へと逃げ込んだ。化学兵器による攻撃は通常、高所に避難しなければならないことになっている。毒ガスは成分的に空気より重いため、着弾後、低所へと流れ込むためだ。結果、「死のガス」が女性や子どもたちが避難した地下室を襲った。
リポートには、現場に駆けつけた数多くの救急隊員の証言が残されていた。ある隊員は「一家全員が浴室で水をかぶった状態で見つかった」と記し、別の隊員は「家に踏み込むと、母親が赤子を抱えて換気扇の前で死んでいた。酢の瓶といくつかのタマネギを握りしめていた」と報告していた。報告書には酢とタマネギが何回も出てくる。化学兵器に効く――あるいは現地にはそんな迷信があったのかもしれない。
避難所における記述も、目を覆いたくなるようなものばかりだった。
「唇がふくれあがり、すぐ目が見えなくなる。子どもたちは激しく震え、やがて意識を失った」(ある医師の記載)
「被害者の症状は、吐き気や泡のような唾液、引きつけ、心臓疾患、鼻血、幻覚、記憶喪失など。爆撃から約30秒で症状が出ている。多くの人が逃げられずに死んだはずだ」(別の医師の記載)
攻撃を受けた地域には内戦の影響で満足な医療機関が存在せず、避難所には服を着替えるための個室さえなかった。ゆえに女性たちは化学物質が付着した服を脱ぐことができず、そのまま重篤化し、命を落としたらしかった。
薬やベッドも限られており、有効期限の切れた薬は優先的に子どもに使い、大人には家畜用の薬を使っていた。多くが就寝中であったため、犠牲者のほとんどが身元を特定できる物を身につけておらず、見つかった遺体の6割は未確認のまま、特徴をビデオで写しただけで共同施設に埋葬された。
生まれた国や地域が違うだけで、人の命がこうも簡単に、こうも残酷に葬られていく。
なんて不公平なのか、なんて不平等なのか――。
私は悔しくて、悲しくて、心が擦り切れそうになりながら、その一方で、安全なカイロ支局の中にいて、現場にも行かず、現実を直視することもせずに、まるで現場を見てきたかのような「国際ニュース」をそれっぽく書いた。
(2013年8月)